「将来の予測というのは、皆様方、つくんですかね?」
これは、ある対談番組で作家、エッセイストの五木寛之氏が投げかけた質問である。

続いて、

「経済というものは、人間の”心もち”にものすごく影響を及ぼすものなんですよ。小説を書くとき人間を描く上で、経済の動きとか将来どういう風になっていくんだろうということは考えなければいけないので、ビジネス書をよく読むんですよ。
ビジネス書、経済学のトピックスを読むときには3年前に出版されたものを選んで読むんですよ。そうすると、その人が言っていることが、今どうなっているのかということがよくわかるでしょ。
3年前5年前の本を読んでみると、この人はちゃんと見通しているなということがわかるんです。ですが、だいたいにおいてすごく確率のいい人はいません。
100年先の話しはできるかもしれないけど、知りたいのは5年先3年先のことですから、近未来のことをいうことは本当にできない。」
「わかっていることは一つだけ。『明日のことはわからない』ということ。『明日のことが分からない』ということがわかっていると、それはすごくわかっていることだ思うんです。
経済評論家が、『明日のことはわからない』と言える人であれば、すごくよくわかっている人だということ。」
「自分がモノを知っていると思い込むと失敗するんですよ。ですから、自分はモノ事をほとんど知らないんだということを自分で自覚できれば、

  • 知らないことを知る
  • わからないことはわからない

これが、すごくわかっている人だと思います。」

このことは、非常に重要な概念です。しかし、このことをわかっている人というのは、実際のところほとんどいない。株のブログを書いている人たちや、評論家、アナリストなどの論評など見ていれば容易に想像がつくことです。

たとえば、「塩漬け株をたくさん保有している」というのは、将来株価が上がるだろうと未来を予想しているつもりになっているから。だから、塩漬け株を作る。もし『未来のことはわからない』という姿勢があれば、やることは一つ・・・損切りあるのみということになるわけです。そうすると、塩漬け株など出来るはずがない。

新しい考えを身につける

何か新しい概念、考え方を身につけようと思ったら、ある程度の熟成が必要です。たとえば、私は少し古い本を引っ張り出して読んでみることがあります。すると、当時はさらっと通り過ぎた部分が、「あっ、これ、重要じゃないか」と気付くことがよくあります。
こういうときには、

  • 「知らないことを知ることができた」
  • 「気付けなかったことに気付くことができた」

と思う。
今まで自分が知らなかったことを知るということは、今までの自分の考え方や、極端にいえば生き方までもを自ら否定することをも意味します。
今まで、”まる”だったものが、実は見方によっては”四角”かもしれないですからね。柔軟さに欠ける人であれば、「今まで、”まる”だったんだから、今後も”まる”に違いない」と頑なに心の扉を閉じてしまうわけです。
以前の私は、そんなタイプでした。自分のやってきたことはすべて正しくて、自分が間違っているとは認めないタイプ(笑
尊敬するある人がこんな例えをしてしてくれたことがあります。

「エジプトのピラミッドを、正面から見上げた人は三角だと言い、飛行機から見下ろした人は、四角だと言う。三角だ、四角だと言い張ってもしかたない。どっちも事実なんだから。」と。

先日あるテレビ番組で、ピューリッツァー賞を受賞した『ハゲワシと少女』という写真を撮影した、報道写真家ケビン・カーターを取り上げていました。

1983年から続く内戦と干ばつのためにスーダンでは子供たちを中心に深刻な飢餓が起こっていた。しかし、スーダン政府は取材を締め出し国外に伝わらないようにしていた。そんな中カーターは、内戦の状況を伝えようとスーダンに潜入した。
カーターが訪れた国連などの食料配給センタ?があるアヨドという村では、飢えや伝染病で1日に10人から15人の子供たちが死んでゆく有様だった。やりきれなさから、その村から離れようとして村を出たところで、ハゲワシがうずくまった少女を狙うという場面に遭遇したのである。現場にいたカーターの友人でありフォトジャーナリストのジョアォン・シルバの証言などによると、写真の構図は母親が食糧を手に入れようと子どもを地面に置いた短い時間にできたものであったという。カーターは写真を撮った後、ハゲワシを追い払い、少女は立ち上がり、国連の食糧配給センタ?の方へよろよろと歩きだした。それを見た後は、すさんだ気持ちになり、木陰まで行って泣き始め、タバコをふかし、しばらく泣き続けたと手記に記している。
この写真が、ニューヨーク・タイムズ紙に1993年3月26日付けで掲載されると強い批判がニューヨーク・タイムズ紙に寄せられた。大部分が写真を撮る以前に少女を助けるべきではないかという人道上からのものであった。この写真は「報道か人命か」という問題として、その後何度かメディアで取り上げられ、論争に発展した。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

この写真を見た人々は、「何故、写真を撮ることより、少女を助けることを選べなかったのか」と非難したそうです。
しかし、事実は違った。
この写真を撮影した直後、ケビンはハゲワシを追い払った。しかも、この撮影場所は、映っていない部分では人がたくさんいて、母親もすぐそばにいたということだったと・・・。
これが、私も含めて多くの人のモノの見方です。
見ていない部分はないものとして、見えている部分だけで判断をくだします。知らないこともあるのに、すべてを知っているかのごとく論評することは非常に愚かな行為です。
学ぶということは、いったん自分のなかの既存の概念を白紙にして、いわゆる客観的な視点で物事を捉え、考えること。新しいことを、すべて鵜呑みにするということではなくて、反対側からのモノの見たときにどう見えるかということを受け入れ考えるということ。
これは、年を重ねれば重ねるほど、また、世間的に賢いと言われる人ほど、頑なに自分の意見を押し通そうとする傾向にあるようです。

  • 知らないことを知らないと認める
  • わからないことはわからないと認める

この概念を持って相場を眺めてみれば、また、新しい発見が必ずあります。
私がそうだったように(笑